前回、長崎出島にある版画家の田川憲氏のアートギャラリー「Soubi’56」の田川俊 (たかし) さん・由紀さんご夫婦にお話を伺い、ギャラリーの活動や販売アイテムの紹介をさせて頂きました。
お話の中で田川憲氏が中国上海で生活をしていた点、私自身が現在上海と関わりがあるためギャラリーの記事とは別に田川憲氏の上海生活の足跡の記事を書かせて頂くことになりました。
田川憲氏の日本や長崎での活動は目に触れる機会も多いと思いますが、氏の上海での足跡を調べれば調べるほど中国上海で生活をしていた日本人との繋がり、版画家としての活動内容が見えてきました。
田川憲が住んだ1930年代から40年代の中国上海とは
田川憲氏の経歴を紐解くと38年から40年、41年から45年の2度、従軍画家として中国に渡航との記録が残っています。
第一回目は38年に浙江省の杭州湾上陸後、江蘇省徐州市、湖北省漢口市に赴き、その後の大半を上海で生活。第二回目は上海を中心に生活を送っていたようです。
当時の長崎は国際便として「日華連絡船」と呼ばれる上海行きの定期旅客船が就航(1923-1943)しており、26時間後には国際都市の上海へ到着。田川氏も長崎から上海に旅立ったと推測されます。
長崎より定期便が出航していた上海には最大で10万人近い日本人が生活していたそうで、定期便が着岸する虹口 (当時の読み:ホンキュー、現在はホンコウ) 区には日本人街が形成。この虹口区一帯が”日本人租界”と言われる場所でした。
虹口区で特に栄えたエリアの北四川路(現在の四川北路)や呉淞路には、お寺・神社・料亭・日本人向け商店・長崎からの定期便で輸入した鮮魚を販売と、日本と変わらぬ生活が出来る場所だったようです。
なお北四川路には有名な内山書店が店舗を構えていました。
次に触れる田川憲の活動の内容からも、氏がここ虹口区を活動の拠点にしていたようです。
中国での従軍画家・版画家としての活動
田川憲氏の活動記録には『上海滞在中に「上海版画協会」の設立や「版画研究所」の設立に参画し、事務所を北四川路に置いた』と言う記述があります。
また「上海年華」と呼ばれる上海の歴史や文化を紹介するサイトによると、1942年12月10月に創刊した月刊誌『中国木刻』(中国木刻作者協会発行)に「木刻座右銘」を寄稿と紹介。
別の活動記録には同じ年に上海で日本版画協会展を「上海パークホテル」で開催、開催にあたって尽力。版画「華中風物六景(杭州西湖) (蘇州虎邱) (弄港夜景) (江頭聞鶯)」の作品を制作した記録が残っています。
現存する数少ない戦前の版画挿絵
「国立国会図書館」のデーターベースを調べると「大陸の子供と兵隊 : 5・6年生向(1943年)」「上海の文化(1944年)」などの挿絵に版画が使われていた記録が残っていました。
「大陸の子供と兵隊 : 5・6年生向」には中国での軍人や日本人の生活の様子の挿絵が多く使われており、従軍画家の活動の一つだったと推測できます。
追加調査で判明。中国出版物の活動記録
記事アップ後に『中国木刻』の記録を頼りに、もう少し深く当時の出版物の情報を調べてみました。
そうすると田川憲が中国で寄稿や版画が掲載された雑誌の具体的な情報を見つける事ができました。それぞれ年代別にご紹介したいと思います。
雑誌「華文大阪毎日」(1941年)
第6巻第10期16ページの「杭州紫来洞の難民[木刻]」
雑誌「青年良友」(1942年)
第3巻第7-8期30-31ページの「中國の新春(田川憲 木版画集)」
雑誌「中国木刻」(1942年)
創刊号9-10ページの「木刻座右銘(一) 版画以前の事」
雑誌「中国木刻」(1943年)
第2期11ページの「木刻座右銘(二)」
雑誌「中国木刻」(1943年)
第3期7-8ページの「木刻座右銘(三) 私の願望」
雑誌「太平」(1943年)
第2巻第7-8期56ページの「中国版画の批判」
「中国木刻」の寄稿はより具体的な情報が判明し田川憲の版画に対しての考えや情熱、中国版画に対しての思いが伝わってきました。
田川憲が生活した上海での住居とは
「1942年6月の日本版画協会の出品目録巻末に“田川憲一 上海施高塔跡 四達里三号”」との記録が残っていました。折角なので現在の施高塔跡(現在の山陰路)の場所を訪れてみることに。
山陰路は四川北路にあった内山書店から東に入った北南に伸びる道です。
このエリアは当時の租界時代を思い起こさせる建物がまだ残っており、田川憲が目録巻末に記録した“四達里”と呼ばれる住宅地区は、なんと!現在も現役の住居として利用されていました。
なお四達里から内山書店までは120メーターしか離れておらず、徒歩1分圏内でした。
氏が設立した「上海版画協会」の住所跡
また先に触れた「上海版画協会」を設立した場所が「永安里」であると田川俊さんに情報をもらい、こちらも訪問してみました。
「永安里」は四川北路と多倫路に挟まれた一角で、内山書店跡からは徒歩6分の距離。
当時の多倫路は魯迅も一時期居を構え、上海の文化人が多く交流していた場所の一つ。現在は魯迅を含めた文化人の銅像を設置し当時の生活を紹介しており、週末には地元上海人や観光客が散策をする場所となっています。
「四達里」と同様に「永安里」も現存し住民が生活をしていました。
刺激を受けた上海生活で田川憲に改名
アメリカやフランスの租界があった国際都市”上海”。各国の絵画の作品に触れる機会も多かったのか氏は強く刺激を受けたようです。
その一つとして本名の” 田川憲一” での活動を1940年ごろから” 田川憲”に改め、作品には海外を意識した「k’en」と言うサイン(※)に変更をしています。※一部作品はひらがなで「けん」漢字で「田川憲」のサインあり。
名前の変更には中国人との交流も大きく関係している点も見受けられます。それは中国人の氏名は2文字か3文字が多く、日本人のように4文字の氏名は非常に稀です。
また中国の名字は1文字または2文字のため、姓が2文字であった田川氏は名字を”憲”の1文字に変えることで、3文字の氏名とし、生活をした中国に馴染んだ名前、外国人でも聞き取りやすく・発音しやすい音を考慮したのでは無いでしょうか。
田川俊さんによると詳細は不明ながら一時期「田憲」と言う2文字の名前に変更していた作品もあるそうです。
魯迅コレクションになった田川氏の版画作品
田川さんご夫婦のお話と中国の記事の調査を進めていくうちに、辿り着いたのが「魯迅」との接点でした。
田川俊さんの話では「1940年に内山完造と中国木刻作者協会の創立に協力。日本版画協会会員に推挙」と言う記録が残っているそうです。
この記録により時代背景や活動拠点より可能性が高かった、内山完造との繋がりが分かったのです。
内山完造とは内山書店の店主。書店経営で成功し、当時の上海に住む日本人の文化人・芸術家と縁も深く、魯迅の友人として魯迅の著作を発行、生活の支援をしていた人物です。
そんな内山完造と田川氏の繋がり、中国滞在中に発表した「華中風物六景」をキーワードに中国のネットを調べたところ、「華中風物六景」が「魯迅コレクション」として所蔵されている事実でした。
魯迅は生前、海外の版画を愛しコレクションした第一人者で2,000点ほど所蔵。そのうちの半分に当たる1,000点余りは浮世絵を含む日本版画の所蔵だったようです。
そんな「魯迅コレクション」は北京魯迅博物館に所蔵されており、その中の一つとして田川憲氏の「原作名:華中ふうぶつ六景(中国名:華中風物六景)」も所蔵されています。
ただ田川氏の訪中前に魯迅は死去(1936年)している事実から、魯迅と関係が深かった内山完造を通じて没後に作品が寄贈されたのかも知れません。
田川氏の作品を魯迅が手にとって愛でられなかったのは残念ですが、上海日僑版画界の第一人者とまで言われた田川憲、魯迅が直接手に取っていたのであれば必ず気に入ったことでしょう。
田川憲が住んだ日本租界があった中国上海の足取りのまとめ
如何だったでしょうか?
田川さんご夫婦にご協力・情報提供を頂き、現在の虹口区の写真を交えながら、田川憲氏の中国上海での足取りをご紹介してみました。
田川さんご夫婦より伺ったギャラリーの趣旨の通り、田川憲氏の歩んだ歴史を踏まえて作品を鑑賞すると、また新たな発見があるのかも知れません。
田川憲氏の作品に興味をお持ちになった方、ぜひ一度「Soubi’56」に訪問して下さい。「Soubi’56」の紹介記事はコチラから。
田川憲の作品が楽しめる長崎出島にあるギャラリー
【Soubi’56(そうび’ ごじゅうろく)】
住所:〒850-0862長崎市出島町10-15日新ビル106
電話:095-895-7818
開館時間:11:00~18:00
金・土・日のみOPEN(イベント参加のため休館の場合もあり)
※作品自体の販売はありません。作品を使ったオリジナルのポストカード、ブックカバーなど販売。
SNS:facebook Instagram
地図:
【参考情報】海外のサイトも含まれるため自己責任で参照ください。
武漢美術館「引玉拈花——鲁迅收藏的外国版画」
上海年華「《中国木刻》创刊」
長崎市南山手地区町並み保存センター「田川憲 作品展」
国立国会図書館デジタルコレクション「大陸の子供と兵隊 : 5・6年生向」
版画堂「版画家名鑑」※PDFデータ
※掲載時の情報です。内容は変更になる可能性があります。